イタリアワインの、歴史を学ぼう。

レディガッフィ ですね。
トスカーナを、いや、イタリアを代表するピュア・メルロ。
説明するまでもなく誰もが知っている、と思いきや、インポーターの若い人で知らない人がいた。
お酒の席とはいえ、
「ウッソや!? 知らんの!!?」
って反射的に口から出てしもた。
「インポーターやったら知っといた方がエエで!」
とも言った。
シラフの今でも、そう思う。
この現象、これから先 さらに目の当たりにすることが多くなるだろうね。
今はレディガッフィのような価格帯のワインが飛ぶように売れた時代ではない。
またガンベロロッソの購読者が昔みたいに多いとは思えないし、
その評価で価格が決まるという時代も、終わった感がある。
僕はこのワインが飛ぶように売れていた時代には、この業界に居た。
スーパートスカーナを持って歩く営業マンを羨望の眼差しで見ていた。
(情けないことに僕が最初に勤めた会社にはこのカテゴリーがなかった・・・)
そういう境遇だったからか、スーパートスカーナと名のつくワインの情報は何でも読み漁った。
嬉々として勉強した。
先日、配達したリストランテのシェフとそんな話をした。
僕より少し年下だがその人の口からはスーパートスカーナの名が止めどなく出てきた。
勉強して、飲んで、体験したからこその話しぶりだ。
シェフに件のインポーターさんのことを話すと、たいそう嘆いていた。
<イタリアワイン・ルネサンス> と呼ばれた時代にワインを売っていたこと。それは僕にとってかけがえのない経験だ。
あの頃は良かったとは言わないが、時代は変わった。
どう変わったか?
当時 輝いていたワインが、今は輝かなくなった。
いや、「輝けなくなった」、というべきか。
様々な理由があるだろうが、いくつか挙げてみる。
まず、情報が多ぎること。
インターネットの普及により凄まじいスピードで情報が流れてゆく。 今年、世界の人口のネット利用率は50%を超えた。つまり二人に一人はその凄まじい情報を享受できる立場にある。
また、「コスパ」 という言葉は死語になりつつあると願うが、それを求める傾向が強いという状況は今も変わらない。
端的に言えば、そのようなワインを飲める人が、著しく減った。
そしてこのふたつの理由から考えれば当然の帰結だが、
飲む人が減れば扱うお店が少なくなり、扱わなければ、そこに従事する人は勉強もできない。
目に触れなければどういったワインなのか興味が薄れ、やがて忘れられてゆく。
今はこういった悪循環の中にあると思う。
これ、良くない。
なぜ良くないかって?
じゃ、これなーんだ?
エレガントなキアンティ・クラッシコを造ることで知られる リエチネが新たにリリースしたワインは、なんとメルロだった。
まだ飲んでいないから想像の域を超えないが、
メルロとはいえ リエチネが造るわけだから、きっとエレガントに仕上がっているんだろうね。
骨太で肉厚、パーフェクトな レディガッフィとは対照的な。
と、僕ならばこうイメージするが、
もしこれが、レディガッフィを知らない、そしてスーパートスカーナを知らない、
更に リエチネも知らない人がこのボトルを見たら?
味わいを想像できないのではと思う。
これが、「良くない」 と書いた理由だ。
ある広告コピーに、
<勉強のいちばんの成果は、
もっと勉強したくなることです。>
というのがあった。
目先の情報は確かに大事だ。
だが、それらのワインが造られるまでにどういった歴史があったのか、
知っておいて損はないと思う。
<イタリアワイン・ルネサンス> と呼ばれる時代だ。
日本の歴史でいえば <幕末> くらいに面白い。
その渦中にあったワインを一つ、深く調べて飲んでみるといい。
きっと、もっと知りたくなること請け合い。
それらのワインが、また輝ける時代になると、いいね。
そう願いながら考えを巡らせてみた師走の夜でございました。
~ 業務用イタリアワインなら! エノテカビアンキッ!!学べばもっと、オモロくなる。 ~