パオロ・デ・マルキ 来日レポート全文 ♬
既にウチのお客さんには手元に届いていると思うが、イゾーレ・エ・オレーナのオーナー、パオロ・デ・マルキさんの来日レポートをば。
画像はないが内容は濃い、と自負しているので、長いけれど よければ読んで下さいな。
~ イゾーレ・エ・オレーナ当主
パオロ・デ・マルキさん来日レポート ~
有限会社エノテカ・ビアンキ 丸谷 崇
僕がイタリアワインの業界に入ったのは今から20年ほど前。
市場では数多の情報が行き交い、各インポーターが競うようにワインを売り歩いていた。
<すごいワインがリリースされる!>という噂が流れれば、入荷する前に売り切れる時代だった。
その中心的存在、ひときわ華やかで例えがたい魅力を纏った地域のワインがあった。
トスカーナだ。
スーパートスカーナの大波が次々と押し寄せてきた時代。残念なことに僕が勤めていたインポーターはそのカテゴリーを持っていなかったから、それらを売り歩いている営業マンを羨ましく思ったものだ。
スーパートスカーナの中心となったのは、やはりフィレンツェとシエナの間、キアンティ・クラッシコ地区のワイナリーがリリースしたものだろう。アンティノリが持つティニャネッロやソライア、ペルカルロ、カマルティーナ、レ・ペルゴレ・トルテなどは、今なお活躍するワインばかり。
その中に、今回来日した パオロ・デ・マルキさんが造る「チェッパレッロ」も肩を並べていた。
~ イゾーレ・エ・オレーナ ~
1956年、北ピエモンテ出身の デ・マルキ家は、トスカーナ州キアンティ・クラッシコ地区内の西側、バルベリーノ・ヴァル・デルサにある、イゾーレ村とオレーナ村に畑を購入した。バルベリーノ・ヴァル・デルサは地中海から最も近い丘で、キアンティ・クラッシコにありながら海の影響を受ける特異な土地である。イゾーレは450m、オレーナは380mと、キアンティ・クラッシコ地区内でも高い標高。そしてオレーナの東側には森が広がる。良質なブドウを収穫するに適した土地といえよう。
また、320ヘクタールを所有していながらブドウ畑は51ヘクタールというから、良いブドウを造るための環境作りに注力しているのが窺える。
~ キアンティ・クラッシコ ~
チェッパレッロは、イゾーレ・エ・オレーナを一躍有名にしたワインだが、やはりここはキアンティ・クラッシコの造り手。キアンティ・クラッシコこそが、看板商品だ。
主体となるサンジョヴェーゼに、補助品種のカナイオーロ、そしてそこに、シラーをブレンドする。これが、イゾーレ・エ・オレーナのキアンティ・クラッシコの伝統だ。
今やイタリアにおけるシラーの栽培は珍しくないが、トスカーナのこの地に、最初にシラーを植えたのはパオロ・デ・マルキで、以来、キアンティ・クラッシコにごく少量ブレンドすることで全体のバランスを整える役割を担っている。
つまり、たくましい酸を有するサンジョヴェーゼに、カナイオーロとシラーをブレンドすることによって、強い酸を和らげ、スパイシーさとフィネスを備えた、上質なキアンティ・クラッシコに仕上がるのだ。
~ チェッパレッロ ~
今は枯れてしまったが、カンティーナの近くを流れる小川の名前からその名が付けられた。その為チェッパレッロは、単一畑ではない。イゾーレとオレーナの畑から厳選されたサンジョヴェーゼのみが、チェッパレッロとなる。
このチェッパレッロ誕生前にサンジョヴェーゼ100%(当時、これではキアンティ・クラッシコを名乗れなかった)のワインは、「レ・ペルゴレ・トルテ」ただひとつで、その事実だけでも、このカテゴリーを創造した偉大な造り手であり、偉大なワインといえるだろう。
ちなみに、レ・ペルゴレ・トルテのファーストヴィンテージは1977年、チェッパレッロが1980年。そしてその後、フラッチャネッロなどが続く。
世に言うスーパートスカーナの新樽比率は高いものが多いが、チェッパレッロのそれは全体の3分の1以下と低い。その結果か、若いヴィンテージですら落ち着いた安定感がある。
元祖「ピュア・サンジョヴェーゼ」は存在感が違うのだ。
~ コッレツィオーネ・プリヴァータ ~
このシリーズは、シャルドネ、シラー、カベルネ・ソーヴィニョンの3種のワインで構成される。
中でもシャルドネは、熱烈なファンが世界中にいて、日本の市場でもほとんど出回らない。スーパートスカーナ全盛と同じ頃、同じく大ブレイクした「シャルドネ・バリック」というカテゴリーを牽引したワイン。トスカーナにおける「孤高のシャルドネ」というべきもの。
昔、このシリーズは、「コッレツィオーネ・デ・マルキ」という名でリリースされていた。
何故、名が変わったのか聞いてみると、
「デ・マルキ家は元来、伝統的なワインの造り手だろう? だから最初は、プライベートな名を付けて伝統的ワイン、つまりキアンティ・クラッシコ、ヴィンサント、そしてチェッパレッロとは区別したかったんだ。でもこのシリーズを創ったのは僕だ。デ・マルキ家じゃない。シャルドネやカベルネで造ったワインがその名を冠しているのはどうもしっくりこなくてね。だから、僕パオロのプライベートラベル、ってことで、<コッレツィオーネ・プリヴァータ>って名に変えたのさ。」
~ プロプリエタ・スペリーノ ~
このカンティーナは、パオロ・デ・マルキが1999年に購入したもの。
場所はピエモンテ州レッソーナ。「北ピエモンテ」と総称されるこの場所は、今でこそ、130ヘクタールのガッティナーラ、100ヘクタールのゲンメを筆頭に、市場でよく知られるようになったが、18世紀以降は荒廃を極め、18,000ヘクタールあった畑は800ヘクタールへ、プロプリエタ・スペリーノのあるレッソーナに至っては、1,200ヘクタールからたった4ヘクタールへと激減した。
その最大の理由は、「フィロキセラ」によるもの。それ以前は、バローロやバルバレスコよりもずっと名高い銘醸地であったそうな。
フィロキセラが猛威を振るった後、人々は畑を復興することなく、この地を捨てて、繊維業が盛んな近隣の街ビエッラへと居を移した。レッソーナは、ビエッラから最も近い産地であったために人々に減少が著しく、畑の荒廃が最も深刻な土地となった。現在でもレッソーナは、他の2産地と比べると生産量が少ないのは、こういった歴史があるのだ。
パオロ・デ・マルキはこのレッソーナの土地を購入、ワインを造ることを決心した。彼のルーツ、北ピエモンテとは正に、このレッソーナである。
「自分のルーツであるこの地で、いつかワインを造りたかったんだ。」
パオロさんはそう言う。
そこでは伝統に忠実に、この地のワイン、レッソーナとコステ・デッラ・セシアを造る。現在では彼の息子ルカもワイン造りに参加し、プロプリエタ・スペリーノの責任者として活躍する。
レッソーナのカンティーナを購入したのは彼が50歳の時。その歳にして、新しいカンティーナを興すというのだから、気持ちが若いのだろうね。
2017年5月15日。一日同行して回ったパオロ・デ・マルキさんは66歳だが、とてもその歳には見えない。その歳になった現在でも、新しく考えているプロジェクトを、柔らかい笑顔を交えて僕たちに語ってくれた。
自分が昔、憧れた造り手に、会って、同行営業しているのが誇らしかった。
この業界に入ってイゾーレ・エ・オレーナの存在を知り、それを輸入するインポーターへ入社し、それを嬉々として売り歩いた時も、本人には会えなかった。だから自分にとってこの日は特別であったし、だからこそ同じ気持ちを共有している人のお店へ、ほんの数軒ではあったけれど訪問し、本人の声で語ってもらえたのが嬉しかった(熱く語りすぎて長かったけどねー)。
「この来日が最後になるかも。」とパオロさんは言った。
年齢的にもそうなのだろうが、
「世界を飛び回って営業するのが僕の使命ではなく、良いワインを造り続ける事こそが使命と思っているのでね。」
と彼は付け加えた。握手した彼の手は大きくてゴツゴツした、農民のそれだった。
数か月前、ある会で「チェッパレッロ2002年」を開けた。
ご存知、2002年は誰もが「悪い年」と言うヴィンテージ。
さてそのワインは、噂通りの悪いヴィンテージを反映した味わいだったのかというと、
全くそうではなかった。
まだまだ上向きの熟成過程で、滑らかで素晴らしいワインだった。
このヴィンテージのチェッパレッロを、輸入元のエトリヴァン佐々木さんは、「全くと言っていいほど売れなかった。」と言った。
美味しいワインを飲みたい。 ワインラヴァーならば誰でも、そう願うものだ。
だが、良いヴィンテージかどうかは、悪いとされるヴィンテージを知ってこそ判断できることで、良いヴィンテージだけを飲み続けても、それが良いかどうかは、解らない。
毎年買い続け、飲み続けることが、良し悪しを判断できる唯一の方法であり、そういった造り手を2、3決めておくと、造り手の苦楽を少しではあるが、共有できる。
それこそが、ワインの最大の歓び。
40回以上、収穫と醸造を経験しているパオロさんのワインは、それだけの説得力がある。
最後に、15年前、佐々木さんから伝え聞いたパオロさんの言葉で、このレポートを終えようと思う。
悪いヴィンテージなんて存在しない
あるのはそのヴィンテージの個性
それだけだよ
パオロ・デ・マルキ
2017年5月22日 高野山大学図書館にて作成
~ 業務用イタリアワインなら! エノテカビアンキッ!! 解ってもらうために、時間かけてますねん。 ~